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Ardent Obsession III

エロス、ロゴス、タナトスの臨界点

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若松孝二と「花と蛇」

IMG_0252.jpg

(http://bit.ly/Qtwu0A にはリンク付きの記事があります)

若松孝二監督が交通事故で亡くなった。

1936年(昭和11年)4月1日生まれとされているので、76才である。

今年だけでも、5月のカンヌ国際映画祭に新作『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』が招待上映、9月のベネチア国際映画祭に新作「千年の愉楽」が招待上映、10月には釜山国際映画祭にて「今年のアジア映画人賞」受賞と精力的に活動されていただけに、惜しまれる突然の死である。

若松孝二監督のデビュー作とされているのが1963年(昭和38年)の『甘い罠』。制作は東京企画で主演女優は香取環である。年代的にも、制作の東京企画も、個人的には興味深い存在である。

1960年代の前半といえば、いわゆる「ピンク映画」が勃興した時代。最初のピンク映画とされる小林悟監督『肉体の市場』が公開されたのが1962年(昭和37年)3月。続く11月には本木荘二郎が『肉体自由貿易』(国新映画)を制作しており、この作品をピンク映画第1号とする説もあるらしい。いずれにせよこの時代の「ピンク映画」(「ピンク映画」という言葉そのものは1963年(昭和38年)に内外タイムスの記事で使われた「おピンク映画」が起源とされている)、その後のピンク映画がそうであるような、過激なセックスシーンはほとんどなく、今のわれわれが観ると普通の性表現作品である。位置づけとしては、1960年代初めに、大手映画会社ではなく、群小プロダクションが低予算で映画作品を作り始め、観客の注目を集めるために大手映画会社が躊躇する性や暴力表現を取り入れた映画作品、ということになる。

若松孝二監督が映画に関わり出したのは、映画ロケの弁当運び屋からだとされている[1]。テレビの『鉄人28号』『矢車剣之助』『月光仮面』などの助手もつとめていたようだ[1]。『月光仮面』といえば『宣弘社』が1957年(昭和32年)に企画したテレビの大ヒット作品。西村俊一がプロデューサーである。おそらく若松孝二は、1950年代の後半にはTV作品の撮影現場に出入りしていたものと思われる。もちろんこの時代、大手映画会社から流れたスタッフがTV番組の作品を制作していた。

西村俊一の『宣弘社』には、面白いことに、後のヤマベプロの山邊信雄が音響として参加していた。1958年(昭和33年)頃のことである。山邊信雄も山本薩夫、今井正らの映画製作の関わりから流れて、TV作品の制作へ入ってきた。

やがて山邊信雄は、1963年(昭和37年)頃にテレビ放送社に入社し、『どら猫大将』『恐妻天国』『ガンビーくんの冒険』のプロデュースで興行的に大成功を収める。約2年後にテレビ放送社に入社してきたのが団鬼六である。団鬼六の自伝には、この頃のことが脚色まじりに面白おかしく書かれているが、現実は売れっ子プロデューサーと入社まもない翻訳家の力関係である。団鬼六は、三浦市三崎の英語教師を辞して上京してきた。奇譚クラブの『花と蛇』第一部が完結した頃に相当する。

テレビ放送社でプロデューサーをしていた山邊信雄であるが、当時勃興してきた「ピンク映画」に可能性を見いだす。テレビ放送社を籍をおきつつ映画製作に乗り出し、その第一作が1965年版「花と蛇」である。もちろん団鬼六の原作・脚本である。

さて、この1965年版「花と蛇」が若松孝二と関わってくる。

1965年版「花と蛇」については、2009年(平成21年)10月10日に「Obsession II 」に「映画における緊縛指導 〜その3〜 団鬼六」として一度記事を書いたことがある。その記事では、この1965年版「花と蛇」は、製作が東京企画、監督が山邊信夫の変名「岸信太郎」で、主演は紫千鶴と紹介した。これらの情報は日本映画データベースに依ったものだった。

また、その記事では、団鬼六の奇譚クラブ1965年(昭和40年)8月号『鬼六談義 映画「花と蛇」』を引用し、「『撮影に二、三日立ち会ってみたが・・・監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない』・・・K氏とは、岸信太郎こと、山邊氏である。「監督歴十何年のベテラン」はウソである。ド素人である。」と書いた。

ところがである・・・

この記事を書いた後に、山邊信夫氏に何回かお話しをうかがう機会を得た。山邊信夫氏のこの1965年版「花と蛇」に関する記憶は鮮明で、それによると

製作:ヤマベプロ
監督:小林悟
助監督:若松孝二
主演:タカオユリ、太古八郎
撮影場所:熱海城
脚本・緊縛指導:団鬼六

だということであった。

これは大変なことである。日本映画データベースの情報とは大きく異なるのである。

かなり昔の事であるので、山邊信夫氏の記憶違いであるのではと、ひつこく質問したのだが、山邊信夫氏の記憶にはあいまいさはなかった。ただし、主演のタカオユリに関しては、「最終的に『紫千鶴』という名前で出たのかなぁ」ということである。また、製作が東京企画となっているのは、配給を東京企画がおこなったから、そうなっているのだろうということた。

「紫千鶴」という名前に関しては、上述の『鬼六談義 映画「花と蛇」』でも「紫千鶴は火石プロに所属する21才」と出てくるので、表向きには「紫千鶴」という名前が使われていたのは確かなのであろう。タカオユリという名前で撮影に参加していたのかもしれない。日本女優辞典では、「紫千鶴は1932年(昭和7年)6月25日生まれ、マキノ映画などに出演後、1956年(昭和31年)に「紫千代」に改名、1959年(昭和34年)頃には映画界から姿を消した」とされている。もしこのマキノ映画に出ていた紫千鶴が同一人物だとすると、1965年には33才になっている筈なので、「紫千鶴は火石プロに所属する21才」とは随分と違ってくる。1965年版「花と蛇」の主演女優の実体は不明のままだが、山邊信夫氏によると「静子役にぴったりいい女優だったが、すぐやめた」ということだ。

撮影場所の「熱海城」に関しても腑に落ちなかった。山邊信夫氏のお父さんの秘書だった方が支配人をやっていたので、その縁で借りることができた「立派な宿泊施設」、というなのだが、「熱海城」は観光施設で旅館ではない。これもきっと、団鬼六がお気に入りだった熱海『起雲閣』と間違えているのだろうと確認するも、「熱海城」だときっぱり。

そうすると、ひょっとすると昔は宿泊施設があったのかもしれないと、熱海市立図書館に出向いて、学芸員の方にうかがうと、「何に使われるのですか?」と疑いの目をむけられながらも、どっさりと資料を見せていただけました。実は、熱海市と熱海城の間ではいろいろとバトルがあったようなのですが、それは横においておき、確かに1959年(昭和34年)10月にオープンした熱海城は、1960年代には大浴場や宿泊施設を有するレジャーランドとして人気を博していたことが明らかに。山邊信夫氏の記憶と矛盾しません。

次に、監督の小林悟。これも監督が小林悟だとすると話がスムーズになる記録が2つある。1つが『鬼六談義 映画「花と蛇」』の団鬼六の記述。「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」である。過去のブログでは「K氏とは、岸信太郎こと、山邊氏である。「監督歴十何年のベテラン」はウソである。ド素人である。」と書いてしまったが、小林悟がK氏であれば「監督歴十何年のベテラン」で話はあう。また、奇譚クラブ1965年(昭和40年)2月号の鬼六談義にも「『花と蛇』が国映から映画化されることになった。1月にクランクイン。」「新東宝健在なりし頃のベテラン監督。古くからの奇譚クラブの読者。」とあるので、小林悟だとスムーズにつながる。

さらに、やはり過去のブログの「映画における緊縛指導 〜番外編2〜 たこ八郎」で、たこ八郎が「ピンク映画に最初に出たのは小林悟の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いていることに対し、「小林悟の映画にたこ八郎が出演した記録は見つからないし、小林悟の『花となんとか』に相当する作品も思い当たらない。「最初のピンク映画の監督とされる小林悟」と「団鬼六の『花と蛇』」が錯綜して間違った記憶になっているのではと思われる。」と書いたが、山邊信夫氏は、1965年版「花と蛇」にたこ八郎が出たと明言していることを考えると、「ピンク映画に最初に出たのは小林悟の『花となんとか』」は、まさにこの1965年版「花と蛇」にほかならない。

最後が助監督の若松孝二だ。山邊信夫氏は、映画製作に手を出し始めたのは、若松孝二が「どこにも束縛されないで作れる映画がある」と教えてくれたことがきっかけだとインタビューで答えている。山邊信夫氏の言によると、「今はえらくなっちゃったけど、あいつは当時は俺の車磨きをしてて、バカ松って呼んでいた仲なんだよ」ということだ。

確かに若松孝二も山邊信夫も1960年前後には「月光仮面」でつながっていた筈で、山邊信夫のキャラクターから考えて、後輩の若松孝二に1965年版「花と蛇」の手伝いをさせていたのも、いかにもありえそうである。若松孝二のデビュー作が東京企画からであり、1965年版「花と蛇」の配給も東京企画でつながる。

若松孝二監督が、1965年版「花と蛇」の製作に関わっていたという証拠を固めるために、さらにヤマベプロの俳優であった山本昌平氏と山吹ゆかり女史に、2011年にお話しを伺う機会を得た。山本昌平氏は恐らく1965年にはまだヤマベプロには参加されていなかったようで、1965年版「花と蛇」に関しては覚えておられなかった。山吹ゆかり女史もどういう名前で作品が公開されたかは、全然知らないので、1965年版「花と蛇」の現場にいたかどうかは分からないということだった。ただし、両方とも、若松孝二監督や団鬼六氏がヤマベプロの撮影現場にいたのはよく覚えていいらっしゃり、懐かしそうに思い出されていた。

1965年版「花と蛇」のフィルムが残っており、そのスタッフの名前を確認すれば決定的な証拠になるのだが、今のところフィルムを探し出すのに成功していない。山邊信夫氏の記憶ではヤマベプロの作品は東映化学工業株式会社に寄贈したとのことだが、社名を東映ラボ・テックに変えた東映化学工業に問い合わせても、見つからないということだ。もちろん、フィルムセンターも調べてみたがフィルムは見つからない。映画関係者の話では、現時点でも無いと思われていたフィルムがコンスタントに発見されフィルムセンターなどに寄贈され続けているということなので、今後1965年版「花と蛇」のフィルムが発見されることに期待している。

残る手段は、若松孝二監督に直接伺うことだ。あたり前のことなのだが、なんだかおっかなそうな人なので、緊張してしまう。そういうことを考えていたのが、ちょうど三島由紀夫を撮影されていた時期なので、そういう時にのこのこ出ていけば、きっと怒鳴られて終わりだろうな・・と悩みつつ、意を決して若松プロを訪れたのが2011年の9月1日。どういう背景で興味をもち、どういうことを尋ねたいかを手紙にして、それをまずはスタッフに手渡すことができれば、と突撃。

ピンポーン、とベルを押して、スタッフが出てくるのを待つ。しばらくして「だ〜れ〜」と2階か3階かの窓があき、白髪のおっさんが顔を出す。(やばい、若松孝二監督だ!)と、パニックになり、あとは何を言ったか覚えていないが「ポストに入れといて〜」と言われ、手紙を置いてドキドキしながら、そのままJRで近くの風俗資料館に向かっている途中に、携帯に電話が。若松孝二監督からだった。

その時に伺った内容を要約すると

「ヤマベプロを手伝った記憶はない。」「ヤマベプロや東京企画がたくさん映画をつくっていたとの認識はない。」「団鬼六は有名になってから『花と蛇』とを撮らないかとの話しはきたが、当時は知らない。」「山邊さんの車は磨かされていた。」「山邊さんとは弁当運びの頃に出会った。」「TVで助監督はやったが、映画では助監督はやったことはない。」「TV製作でけんかして東京企画で一本撮った。その後は国映。」「そもそも小林悟とは映画の方向性が違うので彼の助監督をやるはずがない。」
といったもの。

これで1965年版「花と蛇」の助監督問題は結着がつくかと思っていただけに、がっくり。若松孝二監督は全面否定どこから、団鬼六も会った事が無いような言いよう。団鬼六は奇譚クラブ1966年(昭和41年)2月号の『鬼六談義 日本三文映画』で若松孝二監督のことを「私の知人の或る若いピンク映画の監督」と紹介し「壁の中の秘事」のベルリン映画祭のエピソードを紹介している。もっとも、ヤマベプロの人達は団鬼六氏のことは「松ちゃん」と呼んでいたので、若松孝二監督の頭の中では「松ちゃん」とその後の団鬼六が同一人物だと認識していない可能性も残る。

「これでまた振り出しか」と落ち込んでいた私に、緊縛師で映画監督のダーティ工藤さんが「若松監督は初めての人には本当のことを喋るタイプでないよ」「映画では助監督はやったことないと言っているけど、実際はやっているしね」と優しい言葉を。確かに、最初は、つっけんどんだった電話の若松孝二監督も、最後の方は「山邊のおっさん、どうしてんの?」「今度会ったら、『お互い長生きしましょう』『女遊びはほどほどに』と伝えといてくれるか?ガハッハッ」と少し和やかに。

チャンスを見て、あと何回かインタビューしてみようと、思っていたのだが、それも叶わぬ夢に。

1965年版「花と蛇」に関しては、奇譚クラブの読者から賛否両論の意見が寄せられている。1965年11月号では「期待はずれも甚だしい。併映の“冒涜の罠”の1コマに吊し上げて擽り責めするシーンの方がずっとよい」との厳しい意見が。この「併映の“冒涜の罠”」の監督が、実に若松孝二である。奇譚クラブの読者を納得させる責め場を撮れる若松孝二の実力人改めて敬意を表し、ご冥福をお祈りしたい。



(参考)
関連した出来事

1931年(昭和6年)4月16日、団鬼六が滋賀県に生まれる。
1933年(昭和8年)、山邊信雄が浅草に生まれる。
1936年(昭和11年)4月1日、若松孝二が宮城県遠田郡涌谷町に生まれる。
1956年(昭和31年)、団鬼六が文藝春秋「オール讀物」主催のオール新人杯に黒岩松次郎の名前で応募した応募した『浪速に死す』が佳作。
1958年(昭和33年)頃、山邊信雄が「宣弘社」に入社。
1960年(昭和35年)4月、団鬼六の『大穴』 が松竹から映画化。
1960年前後、若松孝二がロケの弁当運びから始め、テレビの「鉄人28号」「矢車剣之助」「月光仮面」などの助手。
1962年(昭和37年)、団鬼六『花と蛇』1〜3回を花巻京太郎の名で奇譚クラブ8月9月合併号から連載。団鬼六は新橋でのバー経営に失敗。東京から三浦市三崎に移転。
1963年(昭和37年)頃、山邊信雄がテレビ放送社に入社。
1963年(昭和38年)9月、若松孝二が『甘い罠』(東京企画、睦五郎、香取環)で監督デビュー。
1964年(昭和39年)、『花と蛇』第一部が完結(第15回)。
1965年(昭和40年)春、団鬼六がテレビ放送社に入社。
1965年(昭和40年)、若松孝二が若松プロダクションを設立設立。『壁の中の秘事』がベルリン国際映画祭に出品。
1965年(昭和40年)、1965年版「花と蛇」の完成。

写真は若松プロ。

テーマ:昭和SMの歴史 - ジャンル:アダルト

花真衣とSAMMと長田英吉

(各項目にリンクがはってあるヴァージョンは『SMペディア』の「花真衣とSAMMと長田英吉」にもありますので、そちらもご覧下さい。図へのリンクへもそちらの方が多いです)。

SAMMでの自縛ショー

写真は1983年(昭和58年)のにっかつ映画『団鬼六 蛇の穴』の冒頭のワンシーン。SMクラブでの、逆さ吊り状態で自縛ショーである。演ずるのは「花真衣」、撮影場所は伝説のSMクラブ「SAMM」である。

花真衣さんは、女優として知られると同時に、「カリスマ女王様」「刺青女王」などと称され、若い女王様達も一目おくミストレス。2004年(平成16年)~2007年(平成19年)におこなわれた、ショーアップ大宮(2005年からはDX歌舞伎町に移る)でのSMショーは、今でも伝説として語り継がれ、一部はDVDとしても残されている。

花真衣さんの女王様としての歴史は、昨年、早川舞さんが、連載『そのとき歴史が鞭打たれた』(季刊レポ)の第5回として『伝説の女王様と華麗なるその舞台』として詳しく紹介している。ここでは、重複を避け、特に花真衣さんがSM界にデビューした1980年前後に焦点をあて、先日おこなったインタビューの情報をもとに、当時のSMショーの動きを探ってみたい。

SMショーと長田英吉


SAMMは賀山茂氏が1979年(昭和54年)に港区麻布台にオープンした。高級SMバーの元祖のような存在で、入会金が10万円。毎回、遊ぶ時にも8-10万円かかったそうなので、30年以上前の話であることを考慮すると、敷居はかなり高い。敷居が高いというか、普通の人には一生縁のない場所だ。事実、SAMMのお客さんは、会社の重役や社長が多かったということだ。

ただし、花真衣さんの記憶によると、店に入ってまずあるのは、メンバーではない一般の人も入れるスナックのような場所。ここでは、アラビアンナイト風のコスチュームを着た、一見S風の女性達とお酒を飲むことができたとか。ただし、夜の8時になると、メンバーだけが秘密の部屋に入ることが許される。当時では珍しい電子式カードキーを鍵穴に差し込むと、それまで壁だったところに、突如ドアに変身し、奥にある会員専門の広いホールに入ることができたそうな。そして、その会員のみが入れるホールでは、美女があられもない格好で鞭打たれ責められる秘密のSMショーが繰り広げられるといった、まさに団鬼六の小説のようなお店だったようだ。お金が無くて、前室までしか入れなかった人は、壁の奥から聞こえる、女性の叫び声を聞きながら、どんな気持ちでお酒を飲んでいたのだろう。

SAMMがオープンした1979年(昭和54年)頃のSMショーの様子を振り返ってみよう。SAMMと並んで有名なSMショークラブとしては、葵マリの「赤坂ブルーシャトー」があるが、これはおそらく1980年(昭和55年)のオープン。「SAMM」と「赤坂ブルーシャトー」はマスコミにも頻繁に取り上げられ、SMが市民権を獲得 (?)するのに一役かった存在である。花真衣さんの話では、SAMMは、当時のTV番組「キーハンター」の撮影にもよく使われたそうだ。

一般社会への露出を嫌った、マニアだけのSMクラブとなると、当然より古い時期から存在する。記録にあるものだけでも、1963年(昭和38年)年頃には大阪阿倍野に『唄子の店』が、1972年(昭和47年) 頃には、大坂ミナミに『レイ』が、1970年代には、新宿区舟町に『なかむら』といったSMクラブがあった。ひょっとするとこれらの店でSMショーがおこなわれていたのかもしれないが、1980年代前後の「SAMM」や「赤坂ブルーシャトー」とは、少々立ち位置が違っていたものと想像される。

お店ではなく、舞台でSMショーを見せるとなると古くは、大正時代の伊藤晴雨の「責めの劇団」まで遡れる。話を戦後に絞ると1960年代の向井一也やローズ秋山、あるいは劇団「赤と黒」などがある。これらは奇譚クラブの時代の出来事、確かに現在のSMショーにつながる流れではあるが、伊藤晴雨と同じく、そのつながりを時間しにくいので、ひとまず横に置いておく。

現在のSMショーによりダイレクトにつながる流れとなると、1970年代中頃からの一連の動きであろう。1976年(昭和51年)には、関西の玉井敬友が上京して、六本木に劇団「シアタースキャンダル」を設立している。同時期には桜田伝次郎がGSG企画を立ち上げ、大塚や中野でSMショーをおこなっている。明智伝鬼は1978年(昭和53年)から桜田伝次郎のGSG企画に関わったとされる。

そして忘れてはならないのが「長田英吉」。SMショーの元祖と呼ばれる長田英吉が「オサダ・ゼミナール」として最初にショーをおこなったのが、1960年代後半の阿佐ヶ谷のアルス・ノーヴァではないかとされている。このアルス・ノーヴァでの第1回「オサダ・ゼミナール」の正確な開催日に関しては、さらなる調査が必要なのだが、確実なところでは、上述の上京した玉井敬友の六本木の「シアタースキャンダル」の事務所でオサダ・ゼミナールのショーが1976年(昭和51年)の春から半年ほど行われている。さらに、1978年(昭和53年)からは、渋谷に今もあるストリップ劇場の「道頓堀劇場」でのオサダ・ゼミナールのショーが始まっている。1980年(昭和55年)頃には桜田伝次郎のGSG企画でもオサダ・ゼミナールが行われていたようなので、長田英吉、玉井敬友、桜田伝次郎らが互いに刺激し合いながら、SMショーの形を作っていたのがこの時代である。

長田英吉と花真衣

花真衣さんは、1977年(昭和52年)頃に西日本から上京し、まずは赤坂にあったマンモスキャバレー「ミカド」に勤める。この「ミカド」、奇しくも初代葵マリも勤めていた当時有名なキャバレーである(ただし花真衣さんは初代葵マリさんとは面識はないそうだ)。その後、他のクラブでママをやっていたようだ。ある日、仕事帰りのナイトクラブに一人で来ていた女性客と友達になったそうだが、なんと、その女性が長田英吉のショーパートナーだったそうだ。彼女に、「SAMMでのショーを見に来ない」と言われて行ったのが初めての長田英吉、そしてSAMMとの出会い。これは面白いということで、SAMMでの長田英吉のショーのパートナーとなったのが、花真衣さんがSMの世界に足を踏み入れるきっかけとなった。それまでは、SMがどういうものかは、全然知らなかったということである。

長田英吉のショーパートナーとなったのが、1980年(昭和55年)となっているが、実際の所は、記憶が曖昧なので、多少のずれはあるかもしれないとのこと。ただし、SAMMがオープンしたのが、1979年(昭和54年)で、花真衣さんと同じように、SAMMでの長田英吉のショーパートナー(1982年頃)と中野クィーンでの女王様(1985年頃)をやっていた森美貴さんは「(重なっていない)少々、時代がズレてる(花真衣の方が先輩)」ということなので、1980年(昭和55年)頃からSAMMのショーに出始めたと言うことで話はあう。長田英吉は1981年(昭和56年)1月から、初代葵マリの「赤坂ブルーシャトー」でも定期的にショーをおこなっているが、こちらには花真衣さんはでたことがないとのこと。ただし、どこかのストリップ劇場での長田英吉のショーには出ていたとのことだ。

「中野クィーン」の名前が出たが、これは1975年代中頃からあった最も古いSMクラブの1つで、関和子をママに、本田富朗がオーナーである。1980年代後半には、明智伝鬼が中野クィーンで精力的にSMショーを開催するが、1980年(昭和55年)頃は、基本的に女王様クラブである。

花真衣さんの話では、SAMMでの長田英吉のショーパートナーとしての生活と、中野クィーンでの女王様の生活は同時に始まったと言うことである。週の何日かは、SAMMで長田英吉のショーが夜の8時と10時の2回開催され、そこで覚えた責めの技術を、中野クィーンですぐに実践した、ということだ。花真衣さんは、1982年(昭和57年)頃、「花真衣縛り方教室」を開催していたようだが、おそらくそこで教えられていたのは、長田英吉直系の緊縛術だったのであろう。

最初に紹介した、にっかつ映画『団鬼六 蛇の穴』でのSAMMでの自縛ショー。「自縛ショー」は女優花真衣のトレードマークだが、このきっかけが面白い。ある日、いつものように8時のショーの間に合うようにSAMMで待機していたところ、長田英吉から連絡が入り、時間に間に合わない、とのこと。高いお金を出して観に来てくれているお客さんをがっかりさせるわけにはいかないと、その場で、一人で縛ってショーをすると提案。周囲の心配をよそに、ぶっつけ本番の自縛ショーが予想に反して客に大受けし、その後も続けるようになったとのことである。

女優になったきっかけも、SAMMのお客として来ていた新東宝の専務が、その自縛ショーを気に入り、渡辺護監督の作品の主演に抜擢。この時、渡辺監督が、それまでの「麻衣」という名前に「花」をつけ、さらに字画のよい「真衣」に変えて「花真衣」が誕生したとのこと。この最初の出演映画が、『濡れ肌刺青を縛る』(新東宝, 1982.8)(監督:渡辺護、出演:花真衣 下元史朗 杉佳代子 山地美貴 亜季いずみ 鶴岡八郎 大谷一夫 堺勝朗)である。その後も、梅沢薫、片岡修二などの監督で新東宝の映画に多数出演し、SAMMのオーナー、賀山茂氏の盟友である団鬼六氏のからみで、『団鬼六 蛇の穴』(鬼プロ, 1983.2.25)(配給=にっかつ、企画:奥村幸士、原作:団鬼六、脚本:佐伯俊道、監督:藤井克彦、緊縛指導:賀山茂、脚本:佐伯俊道、出演:志麻いづみ 花真衣 水木薫 松井美世子 中原潤)にも出演している。

女王様とパフォーマー
華水木のママ


「映画やショーの時は、パフォーマーとしての意識が強いので、いかに観ている人達から興奮を引き出すかの方に気がいってしまう」が、「プライベート調教は好きな事ができるので楽しい」とおっしゃる花真衣さんは、やはりねっからの女王様。中野クィーン時代は、M男があれこれ文句をいわなかったので、実に楽しかったそうだ。「文句があるなら、来るな!」で済んだ時代だったそうで、今は「これこれはNGで」と最初に言われたりしていやだということだ。「中野クィーンでは大晦日に除夜の鐘と共に一本鞭を打ち込むイベントがあり、楽しかった~」と喋る時の花真衣さんの目はキラキラ。獲物を前に、さあ、どうやって食べようかしら、という猛獣のようで、さすがカリスマ女王様。伝説のM男さんの「がっちゃん」や「巨泉さん」とのお話しもたくさんしてくださいましたが、こちらは早川舞さんのレポートに詳しく書かれているので、興味のあるかたはそちらをご覧いただきたい。

2006年(平成18年)12月からは兵庫県の西明石駅前に「華水木」というスナックをオープンしており、今回もそのお店でのインタビュー。お店は、一般のお客さんを相手にした、一般のスナックなのだが、もちろん花真衣さんのファンも来店するそうで、SMのお話しもOK。「お店の宣伝もしておいてね」ということですので、SM好きの方は是非、お店に足を運んでいただきたい。お店は7時開店なのだが、お昼間は、まだ現役でプライベート調教を楽しんでおられるそうなので、カリスマ女王様に責められたいM男さんも是非、まずは華水木に行きましょう。住所は兵庫県明石市松の内2丁目8-8。

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カストリ誌時代の『奇譚クラブ』 ~その2~

(各項目にリンクがはってあるヴァージョンは『SMペディア』の「カストリ誌時代の『奇譚クラブ』 ~その2~」にもありますので、そちらもご覧下さい。図へのリンクへもそちらの方が多いです)。

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概説
前回の「カストリ誌時代の『奇譚クラブ』 ~その1~」に続いて、1947年(昭和22年)10月25日から1952年(昭和27年)4月号までの奇譚クラブ初期5年間のB5版時代の動きを整理していみよう。なお、1949年(昭和24年)以降に発行された号を「カストリ誌」として取り扱うのは、本来は正しくないが、便宜上このB5版時代の5年間の『奇譚クラブ』をカストリ誌時代の『奇譚クラブ』と呼んでおく。

1949年(昭和24年)前後の奇譚クラブ
「カストリ誌時代の『奇譚クラブ』 ~その1~」で紹介したように、創刊当時の奇譚クラブは須磨利之の痕跡は見いだせない。これは須磨利之が奇譚クラブの編集に途中から参加したといういろいろな証言に一致している。須磨利之の名前が登場するのは1948年(昭和23年)10月15日発行の通巻9号である(8号が未見なので8号かもしれない)。この9号には辻村隆の変名である「信土寒郎」も登場する。したがって、須磨利之も辻村隆もほぼ同時に奇譚クラブに関わり出したことが分かる。翌1949年(昭和24年)9月15日発行の第3巻第8号では、須磨利之の代表的な変名である「喜多玲子」が登場し、その他の変名も駆使しながら須磨利之が奇譚クラブの製作に深く関わっていたことが分かる。ただ少なくとも挿絵に関しては、この頃までは柴谷宰二郎(=瀧麗子、三条春彦、栗原伸他)と手分けして担当していたようだ。

1949年(昭和24年)11月から1950年(昭和25年)8月の10ヶ月間に発行された奇譚クラブは未見である。いつ、何号が発行されたのか定かでは無い。ただ、1950年(昭和25年)9月号が「通巻23号」と書かれているので、この間に7冊ぐらいは間違いなく発行されていたはずだ。この期間に同じように柴谷宰二郎が関わっていたのかは不明である。1949年は(昭和24年)はカストリ雑誌時代の終焉を迎えた年ともいわれている。激しいインフレで、雑誌の発行が非常に難しい時期だったようだ。名の通った文筆家も、次第にカストリ雑誌に寄稿しなくなったと言われている。特に大阪に拠点を置いていた曙書房には厳しい状況だったと思われる(同時期に大阪から発行されていたカストリ雑誌「千一夜」も、やがて東京に拠点を移している)。ちなみに、1949年(昭和24年)6月には、鱒書房から『夫婦生活』が創刊され、夫婦雑誌の大ブームが到来する(ちなみに、高倉一はこの『夫婦生活』の第3号から編集に参加している)。カストリ雑誌時代と比べると、より「軟らかく」て「エロ」い雑誌が注目されるようになる。

須磨利之の本格参加
1949年(昭和24年)10月15日発行の次に資料があるのが1950年(昭和25年)9月号(通巻23号)の奇譚クラブだ。時代の流れを反映してか、1年前のそれに比べると「軟らかくてエロい」雑誌に変身している。最初のグラビアは『玲子さん海へゆく』というタイトルで、須磨利之の絵と写真とのコラージュが読者の目を楽しませてくれる。写真には何点かのヌードが使われているのが目を引く。これまでにも表紙裏などにさりげなく海外ヌード写真などが掲載されていたこともあったが、この1950年(昭和25年)9月号のヌードは、それに比べるかなり大胆な使い方だ。多色刷りの口絵も既に登場しており、山東京傳『江戸生艶気椛焼』では、4ページにわたる須磨利之の繪物語が展開されている。須磨利之パワー全開といったところだ。

この1950年(昭和25年)9月号では、須磨利之に合わせるように辻村隆も大活躍である。緑猛比古『将軍暁に死す』、緑猛比古『娘御開帳』、信土寒郎『都会の溜息』などの作品を寄稿しており、いずれも挿絵は須磨利之だ。印象としては、ほとんど須磨利之と辻村隆で作られた号のようである。

1950年(昭和25年)の須磨利之
1950年(昭和25年)といえばいわゆる朝鮮戦争が勃発した年である。須磨利之の伝記には創作部分が多く、明らかに時代が前後している記憶も少なくないので、なかなかそのまま資料に使うことはできないのだが、須磨の伝記を信じるなら、この朝鮮戦争の勃発年の春に須磨利之は玲子夫人と結婚している。同年の11月頃には京都から堺市に引っ越ししたことになる。それまでは、京都から必要に応じて堺の曙書房に通い、忙しい時などは泊まり込みで編集を手伝っていたのだが、結婚を機に、また、吉田稔編集長から強く乞われて、堺市に引っ越しをし、奇譚クラブの編集に専念することにした、ということになる。

確かに上述の1950年(昭和25年)9月号を眺めると、挿絵も須磨利之一人で描いているようで(柴谷宰二郎の痕跡は見いだせない)、全体的に須磨利之が深く関わっているのを感じ取れる雑誌となっている。かなり奇譚クラブの編集に集中していたことが分かる。1950年(昭和25年)といえば、須磨利之30才の年である。結婚を機会に曙書房のフルスタッフとなり、奇譚クラブの編集に集中しはじめたと考えてよいであろう。ただし、夫人の旧姓を用いたとされる「喜多玲子」の登場が1949年(昭和24年)9月号なのが気になる。玲子夫人と結婚したのが実は1949年(昭和24年)で、49年の暮れには大阪に移っていたのか、あるいは結婚の前年から既に知り合っており、喜多玲子の変名を使い出したのか、はたまた「喜多玲子は夫人の旧姓」というのが創作なのか、のいいずれかであろう。

美濃村晃と箕田京二の登場
SMファンとしては、奇譚クラブにいつ頃最初に緊縛関係の絵や写真が現れたのかは興味のある点である。未見の号がいくつかあるものの、調べた限りで、最初に縛りの絵が出てくるのが、1950年(昭和25年)12月号の岡村俊二『裸の踊り子』の挿絵である(その後、古い奇譚クラブを所持されている読者の方から「1950年(昭和25年)10月号の緑猛比古『奴の小萬 女侠道中』に須磨利之が縛りの挿絵を描いているとの情報をいただいたしたがって、最初の縛りの絵は、遅くとも1950年(昭和25年)10月号と訂正する)。須磨利之の作品であろう。ただ、この程度の縛り挿絵なら、同時期の他の雑誌に出ていたかもしれない。

須磨利之らしい緊縛の絵が(調べた限り)最初に登場するが、1951年(昭和26年)3月号『軟派小説決定版』である。この号は、その名前が示すとおり、それまでに比べてもさらに増して「軟派エロ路線」に突っ走っている。

3月号の紹介に入る前に、1950年(昭和25年)9月号以降の奇譚クラブを簡単に整理しておこう。上述のように1950年(昭和25年)12月号には軽い縛りの挿絵が登場している。翌1951年(昭和26年)1月号(通巻26号)で特筆すべきは、「辻村隆」の名前が初めて登場している。それまでは、緑猛比古、信土寒郎の変名で精力的に執筆を続けていた辻村隆だが、この号で(調べた限り)初めて、辻村隆『産婦人科医 重利先生行状記』で登場している。挿絵はもちろん須磨利之(変名:沖研二)である。

辻村隆と並んで、もう一人の重要な名前がこの号に現れている。「松井籟子」である。A5版に入ってから『淫火』の連載で注目を集めた女流作家だが、B5版のこの頃から既に、常連作家として寄稿を始めている。また、須磨利之が「箕田京」という変名を使い始めている。これについては後で詳述する。この1月号には、須磨利之が、初期に好んで使った変名、「明石三平」の名で『内股彫謎刺青』と題する長編漫画を描いているのも面白い。

さて、1951年(昭和26年)3月号に戻ろう(2月号は発行されたのかどうか不明である)(その後、2月号が発行されているとの情報を得た)。1月号ですでにかなり大きな動きがあった奇譚クラブだが、この3月号では、まず、巻頭の多色刷りグラビアで片山薫『責めの狂艶絵巻 遊女葦水の最後』で須磨利之の見事な縛り絵が披露されている。変名は「としゆき」である。グラビアでもう1つ注目すべきが、須磨利之構成によるヌード写真の登場である。「春へのあこがれ」がそれで、「構成:美濃村晃、撮影:二宮哲夫」となっている。続いて、同じく須磨利之の変名である沖研二構成のヌード写真「扉のかなた」も掲載されている。少なくとも1951年(昭和26年)の始めから、須磨利之がモデルを使ったヌード写真の撮影を本格的に始めていたのが分かる。

「美濃村晃」は須磨利之が喜多玲子と並んで好んで用いた変名であるが、手に入る資料の範囲内では、「美濃村晃」の変名が最初に登場するのがこの1951年(昭和26年)3月号である。ヌード写真の構成に加えて、直木竜史『哀艶情歌』の挿絵も美濃村晃の名前で描いている。

もう1つ注目すべき変名の登場が「箕田京二」である。同年の1月号では「箕田京」という名で、早乙女晃『呪われた紅人魚』の挿絵を描いているが(ちなみに早乙女晃も須磨利之の変名)、この号では「箕田京二」の名で笠置良夫『泥沼に喘ぐ女』の挿絵を描いている。(その後、1951年(昭和26年)2月号には吉丘垣根『珍談小説 耳掃除異聞』の挿絵を「箕田京太郎」名で描いているとの情報も読者の方からいただいた)1949年(昭和24年)4月に発行された別冊『第七天國探訪記』では「魁京二」という変名が使われているので、「みの」「きょう」などは須磨利之が変名を作る時のキーワードだったのかもしれない。

この「箕田京二」の変名は、3月号以降も頻繁に使われているので、須磨利之のお気に入りの変名だったのだろう。「奇譚クラブ」に編集人は、この年11月号まで一貫して「吉田稔」だったのだが、1951年(昭和26年)12月号から「編集人:箕田京二」と変わっている。おそらく、この12月号から須磨利之が奇譚クラブの編集長に就任したと考えて間違いないであろう。須磨利之は1953年(昭和28年)の中頃に奇譚クラブを離れるのだが、その後も編集人の名は、1968年(昭和43年)の中頃に杉原虹児に代わるまで箕田京二のままである。このことから一般的に、「箕田京二は吉田稔の変名」と考えられているが、おそらくは「箕田京二は須磨利之の変名であったが、1953年(昭和28年)の中頃に須磨利之が奇譚クラブを離脱してからは、吉田稔がそのまま箕田京二の名を受け継いだ」と考える方が正しいものと思われる。

奇譚クラブのモデル達
1951年(昭和26年)の始めから奇譚クラブのグラビアには堂々とヌード写真が使われるようになった。何かの雑誌の転載ではなく、ヌードモデルとカメラマンを使って撮り下ろしした作品である。3月号の構成:美濃村晃による「春へのあこがれ」に続き、4月号では同じく構成:美濃村晃による「お尻 おしり オシリ」という楽しい作品が掲載されている。5月号の「構成・美濃村晃、詩・サトウロクロー」による『ヌードは踊る』ではストリップのダンサーが撮影されている。上述の1951年(昭和26年)3月号の裏表紙にはストリップ劇場の「道劇」の広告が全面に出ている。『ヌードは踊る』で出演している踊り子は、あるいは「道劇」のダンサーだったのかもしれない。A5版時代に、まずカメラマンとして登場する塚本鉄三が、「大阪南のDストリップ劇場でストリッパーたちの宣伝スチール写真を撮っていた」と紹介されているので、塚本鉄三がグラビア撮影を通じて、奇譚クラブへの関わり合いを深めたのではないかと、思わず想像をたくましくしてしまう。

 3月、4月、5月号と「構成・美濃村晃」でヌード写真が掲載されているが、6月号になると美濃村晃ではなく「本社写真部特写」の作品としてヌードグラビアが掲載される。後に、辻村隆が1951年(昭和26年)7月に3人のモデルを使った野外撮影や入浴ポーズの撮影をおこなったことを回想しているので、「本社写真部特写」には辻村隆が入っていたと考えて間違いないであろう。

1951年(昭和26年)11月号になると写真グラビアページは16ページに増え、この号では「モデル嬢年齢当て捨万円大懸賞」として当時のモデルの12人が紹介されている。紹介されているモデルの名は、雲井久子、津森志奈子、吉田百合、赤坂和枝、黒川タミ、濱名藤子、中林カオル、川瀧江、藤原ユキ、渡邊満佐子、牧野マリ子、土井昭子である。この中で、雲井久子、中林カオルの2人はA5版時代に入ってからも引き続きモデルとして登場し、緊縛モデルへと変身する。また、初期緊縛モデルとして極めて重要な存在である川端多奈子が、別の名前でこの12人の中に交じっているはずなのだが、いまのところそれが誰なのか特定できていない。

1951年(昭和26年)時点で緊縛写真の撮影がおこなわれていたのかどうか、もしそうならば、誰が中心となって緊縛写真を撮影していたのかは、非常に興味のある点である。手に入る情報の範囲では、1951年(昭和26年)12月号『男色天国繁昌記』のグラビア「縛られた娘たち」に軽い縛りの写真を見ることができるが、まだまだ本格的な縛りではない。もっとも、奇譚クラブがA5版のSM路線に入ってからも、すぐに本格的な縛り写真が登場したわけではなく、1952年(昭和27年)5・6月号に登場する緊縛写真も、この1951年(昭和26年)12月号の写真と同程度のイメージ的な縛りにしか過ぎない。後に、この1952年(昭和27年)5・6月号の縛りは、モデルが背中で紐を握って縛られているように見せたものであることが明かされている。

一般的に、奇譚クラブにおける緊縛写真は、誌面にグラビアとして掲載される作品よりも、「分譲写真」として頒布されていた作品の方が、内容的にも強烈で、時期的にも雑誌掲載よりも少し早めに頒布されていたようである。この「写真分譲」であるが、実に1948年(昭和23年)通巻5号の時点でその案内を見ることができる。この頃はおそらく縛りの写真などは含まれていなかっただろうが、1951年(昭和26年)頃に分譲されていた「裸体美人写真」に縛り的な作品が含まれていたのかどうか、非常に興味のあるところだ。1952年(昭和27年)5・6月号以降のA5版に入ってからの分譲写真「責め女の写真」については、Mr.分譲写真氏運営の「昭和なつかし奇譚クラブ分譲写真」で詳細な分析が進行中であるが、それとて1952年(昭和27年)10月号以前の分譲写真に突いての整理は、なかなか容易な作業ではないようだ。B5版時代にどのような写真が分譲されていたのか、新しい情報が発見されるのを楽しみだ。

『讀切ロマンス』の存在
この時期の奇譚クラブの動きを見る上で、無視できないのが『讀切ロマンス』の存在である。『讀切ロマンス』は1949年(昭和24年)12月に人情講談の別冊として創刊されている。時期的にはカストリ雑誌ではなく、むしろ実話雑誌・夫婦雑誌の仲間であろう。奇譚クラブのように大阪発の雑誌ではなく東京の雑誌である。

『讀切ロマンス』で注目すべきは1951年(昭和26年)7月号で既に緊縛写真が掲載されていることだ。これは、ストリップ劇場での出し物のワンシーンとしての紹介なので、緊縛写真とは少し違うかもしれない。ただし、『讀切ロマンス』は、1952年(昭和27年)2月号あたりから編集人が上田青柿郎に代わり、かなり本格的な緊縛写真をしばらく掲載し続ける。まだまだこの時期には、奇譚クラブには本格的な緊縛写真は登場していないわけなので、『讀切ロマンス』の先駆性はたいしたものである。

上田青柿郎は編集人として『讀切ロマンス』の他にも『SMプレイ』の創刊にも関わっている。賀山茂氏が1954年(昭和29年)頃に上田青柿郎主催の「縛りの撮影会」に参加しているので、かなり早い時期から緊縛文化の発展に貢献していた重要な人物である。須磨利之や辻村隆が1952年(昭和27年)前半の『讀切ロマンス』の緊縛写真に大きく刺激を受けながら、本格的な緊縛写真の撮影に挑戦していったのは想像に難くない。

まとめ
いささか散漫になった「カストリ誌時代の『奇譚クラブ』 ~その2~」だが、要約すると、1951年(昭和26年)に入ると、奇譚クラブは須磨利之カラーが強く全面に出され、本格的な緊縛挿絵も堂々と掲載されるようになった。「美濃村晃」「箕田京二」という鍵となる変名が登場したのもの時期に一致する。同時に、須磨利之や辻村隆らによる写真撮影もこの時期から活発化するが、まだまだ雑誌そのものには本格的な緊縛写真が登場するまでには至っていない。奇譚クラブに本格的な緊縛写真が登場するのは、1952年(昭和27年)の後半に入ってからである。モデルを使った初期緊縛写真の歴史については、項を改めて整理したい。

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カストリ誌時代の『奇譚クラブ』 ~その1~

(各項目にリンクがはってあるヴァージョンは『SMペディア』の「カストリ誌時代の『奇譚クラブ』 ~その1~」にもありますので、そちらもご覧下さい。図へのリンクへもそちらの方が多いです)。

奇譚クラブ』は1947年(昭和22年)10月25日に創刊号が発行され、1975年(昭和50年)3月1日発行の3月号で休刊するまで、実に29年の長きにわたって発行されたアブノーマル雑誌である。

『奇譚クラブ』が発行されていた1947年(昭和22年)から1975年(昭和50年)の間に創刊された、主なSM関連雑誌の発行期間を見てみよう(図1)。『奇譚クラブ』と共によく名前の出てくる『裏窓』や『風俗奇譚』は、確かに発刊期間も長いものの、『奇譚クラブ』には及ばない。もちろん、発行期間が長ければよいというものでもないが、『奇譚クラブ』が内容的にも高いレベルを維持しながら長期にわたり発行を続けていた。

この図を見ると、70年以降に、どっとSM関連雑誌の創刊が続いているのが分かる。雑誌名として「SM」の略号が使われるのが、1970年(昭和45年)の『問題SM小説』(コバルト社)、『Pocket SM』(コバルト社)、『SMセレクト』(東京三世社)からであるが、この頃からいわゆる「SM雑誌ブーム」が始まり、80年代にかけて何十種類というSM雑誌が生まれることになる。『奇譚クラブ』はこの「SM雑誌ブーム」の到来を見届けた後に、その長い歴史を閉じるわけである。

70年代の「SM雑誌ブーム」と共に、50年代前半にもちょっとしたSM雑誌(といっても、当時はSMという言葉はまだなかったが)創刊ブームがあったのが分かる。『風俗草紙』『風俗科斈』『風俗クラブ』などがそれにあたり、図には載せていないが、他にも『風俗双紙』などの雑誌もこの頃に出ていた。ただ、これら50年代前半の「風俗」雑誌は全て短命に終わっている。1950年代に入ると、1950年(昭和25年)の『チャタレー事件』、1951年(昭和26年)の『あまとりあ』摘発、1954年(昭和29年)の『風俗草紙』摘発と性を取り扱った雑誌・書籍への取り締まりが厳しくなる。その最たるものが、1955年(昭和30年)の『四・二八いっせいとり締まり』で、全国で39人の出版関係者らが検挙されている。これら性風俗雑誌に対する逆風が、50年代前半の「風俗雑誌ブーム」を短命に終わらせたのだろう。ともかく、『奇譚クラブ』はこの性風俗雑誌の取り締まりを免れ、その後も何度か来る取り締まりを耐えながら30年近くも発行を続けたことになる。創刊者で発行者の吉田稔氏の手腕は並大抵のものではなかったのが分かる。

ところで、一般的にSM雑誌としての『奇譚クラブ』は、その始まりが、1947年(昭和22年)ではなく、5年後の1952年(昭和27年)6月号(5月・6月合併号)からとされている。この1952年(昭和27年)6月号から、それまでのB5版サイズから、少し小さめのA5版サイズに変更し、内容的にも大きく変態路線に舵を切っている。

『奇譚クラブ』が創刊された1940年代後半のいくつかの「カストリ雑誌」の発刊時期を見てみよう(図2)。最も初期のカストリ雑誌としてよく名前が出てくるのが、1946年(昭和21年)10月頃に創刊された『猟奇』である。『猟奇』と共にカストリ雑誌として有名な雑誌の1つに『デカメロン』があるが、これが同年1月の創刊である。「カストリ雑誌ブームは」1949年(昭和24年)には終わるとされるのが、その中でも、1947年(昭和22年)11月創刊の『奇譚クラブ』は、カストリ雑誌としても、まあまあ古い部類に属するといってよい。

そもそも「3合飲めば目が潰れる」という非合法の「カストリ焼酎」にその名前が由来していると言われる「カストリ雑誌」であるので、「短命」は「カストリ雑誌」の特徴でもある。この「カストリ雑誌」の宿命から脱皮して、30年近く続いた『奇譚クラブ』は、「カストリ雑誌」の中でも異色の存在といえる。

1952年(昭和27年)以降の『奇譚クラブ』の情報は比較的多いものの、それ以前の「カストリ雑誌時代の奇譚クラブ」の情報は限られている。須磨利之が「カストリ雑誌時代の奇譚クラブ」に参加したのはいつなのか?辻村隆はいつからいたのか?喜多玲子の登場はいつなのか?・・・『奇譚クラブ』のファンにとっては興味のあるところである。「カストリ雑誌時代の奇譚クラブ」に関しては、風俗資料館に何冊かの現物があり、また、ネット上の「懐かしき奇譚クラブ」にも何冊かのデータが存在するので、それらのデータをベースに、分かる範囲での「カストリ雑誌時代の奇譚クラブ」の歩みを追ってみた(図3)。

**奇譚クラブ創刊号

残念ながら私自身は、奇譚クラブの創刊号の現物を目にしたことはない。いくつかの書籍での解説や、ネットの情報は、1947年(昭和22年)10月25日に曙書房から創刊されたということでほぼ一致している。おそらく発行人は吉田稔であろう。ネット上を丁寧に探してみると、創刊号の表紙と称するものを拾うことができる。「怪奇妖気 探奇特集号」と題し、表紙には地味な「龍」のイラストが描かれている。

この画像を見つけた際、「懐かしき奇譚クラブ」のブログに報告したのだが、その時、常連投稿者の一人の方から、この表紙のデザインは、戦前の『グロテスク』のデザインを盗用しているのだろうとの指摘をいただいた。『グロテスク』は梅原北明によって発行された戦前のエログロ文化を代表する雑誌で、1928年(昭和3年)から1930年(昭和5年)まで発行されている。確かに、1929年(昭和4年) 1月号の『グロテスク』の表紙を見ると、『奇譚クラブ』の創刊号とそっくりである。『グロテスク』の発行時期から考えて、吉田稔が若い頃に『グロテスク』に影響を受けていたと考えてもおかしくはない。

この『奇譚クラブ』の創刊号の表紙で面白いのが、誤字である。『奇譚クラブ』の『譚』の「早」の部分が、よく見ると間違っている。横の棒が一本多い。さらに面白いのが、英語表記が「Kitan Clab」と「Club」をミススペルしている。

創刊号は表紙に「11」と数字があるので、11月号として出されたのであろう。通巻2号が同じく1947年(昭和22年)に出ているようなので、こちらは12月号として出たものと思われる。

3号、4号に関しては情報がないので、いつ出版されたのか不明である。通巻5号は風俗資料館にあり、1948年(昭和23年)3月20日に出ている。中綴じ35ページで22円。杉山清詩の『パンパンガール殺人事件』などが掲載されている。杉山清詩は、カストリ誌等に小説を書いていた小説家だ。本業は「京都中央新聞社」の社員で、この「京都中央新聞社」には、須磨利之がつとめていた。事実、須磨利之が『奇譚クラブ』に関わり合いをもつきっかけとして、「1940年代後半、同じく京都中央新聞社に勤めていた須磨利之を曙書房に連れて行き、奇譚クラブとの縁を作る」という表記が見受けられる(他にも、「たまたま梅田駅で昔の(吉田の)戦友須磨利之と出会い、それがきっかかけで須磨氏が奇譚クラブに参画」というのもあるので、どれが真実かはわからないが)。

この杉山清詩の『パンパンガール殺人事件』の挿絵が気になるところだが、挿絵は「紫荘児」の手になるものと記されており、須磨利之の絵を思わせる痕跡は見当たらない。他にも「南陽二」などの挿絵家の名前が出てくるが、全体を通して、須磨利之の関わった気配を感じることはできない。

この通巻5号が3月発売なので、前の年の10月に創刊し、1月分抜けているものの、ほぼ毎月のペースで5号まで発行されていたことになる。ちなみに、この段階でもまだ、『奇譚クラブ』の『譚』は誤字のままで、やはり「Kitan Clab」となっている。

通巻6号の情報はなく、通巻7号が1948年(昭和23年)5月20日に発売されている。中綴じ35ページで25円。少し値上がりしている。やはり杉山清詩の小説が掲載されているものの、全体を通して、須磨利之の関わった気配を感じることはできない。

**須磨利之と柴谷宰二郎

通巻8号の情報はなく、続いて通巻9号となる。この9号で、いよいよ須磨利之の登場となる。

通巻9号が発行されたのが、1948年(昭和23年)10月15日。7号が5月20日なので、少なくとも3ヶ月分抜けていることになる。51ページで40円と値段も大幅にアップしている。

カストリ雑誌ブームは1949年(昭和24年)頃に急速に萎むのだが、その理由の1つに激しい当時のインフレがある。ページ数が増えているとはいえ、半年ばかりで25円から40円に値上げしているわけだから、やはり当時は雑誌発行が大変な時期だったのであろう。

この9号、副題に『爽秋讀切傑作號』とつけられており、執筆陣に邦枝完二や長谷川伸といった名の知れた文筆家の名もある。引き続き杉山清詩が寄稿しており、その後奇譚クラブの常連となる高村暢児の名も見ることができる。注目すべきは、大谷冽『平和荘綺譚第一話 彼女は驚きぬ』、杉山清詩『青空晴子探偵シリーズ 鯰に魅入られた男』、住田恭平『嘆きのイヴ』の挿絵が須磨利之なのである。遂に須磨利之が登場したわけだ。

この号には挿絵画家として、上原正夫、清原康、黒石光、笹岡一夫、岡田利久の名が出てくる。そして驚くことに、「柴谷宰二郎」の名も出ているのだ。邦枝完二『圍い者』の挿絵が「柴谷宰二郎」となっている。

「柴谷宰二郎」はすなわち「滝麗子」である。1953年(昭和28年)に須磨利之が奇譚クラブを抜けた後、しばらくの間、奇譚クラブの中心絵師として活躍した。「三条春彦」「栗原伸」「方金三」の変名でも有名である。

濡木氏の著作では、柴谷宰二郎は「須磨利之の先輩にあたる日本画家」とある。これを裏付けるように、兵庫県芦屋市の広報誌「あしや」の表紙や挿絵を、柴谷宰二郎は1949年(昭和24年)から1950年(昭和25年)末まで担当しており、広報の中でも「柴谷画伯」として紹介されている。芦屋に在住していた日本画家だったのかもしれない。

1953年(昭和28年)以降の奇譚クラブで大活躍する滝麗子が、カストリ誌時代の奇譚クラブに既に絵を描いていたのは、驚きの発見であった。

表紙は恐らく須磨利之の手になるもだと思われる。「クラブ」の「ブ」の濁点が7月号では「フ」の上部に位置しているが、この9月号以降、「フ」の下部に移動している。須磨利之の好むスタイルと想像される。

**辻村隆の登場

もう1つこの9 号で驚きなのが、「信土寒郎」の名が既に出ていることだ。「信土寒郎」は辻村隆の初期の変名。1948年(昭和23年)10月の時点で、辻村隆が既に関わっていたことがわかる。特に何かの小説を書いているわけでは無く、他の人の小説の末尾に、埋め草のように短い文書いていることから、編集スタッフとしての参加だったのかもしれない。

8月号が未見のために、結論として「須磨利之・辻村隆はほぼ同時に、遅くとも奇譚クラブ1948年(昭和23年)の10月号(通巻9号)から参加していた」を導き出すことができる。

9号の出た3ヶ月後の1949年(昭和24年)1月5日に第10号が出版されている。間が空いているのは、やはり経営が難しい状況だったのかもしれない。この号にも須磨利之と柴谷宰二郎が挿絵を描いている。「司馬湲」の名前での挿絵のサインが「SHIBATANI」のままなので、この「司馬湲」は柴谷宰二郎の変名で間違いないであろう。他の笹岡三千雄、笹岡武二、清原康、左脇不二夫、田中比呂志という挿絵画家も、あるいは須磨利之か柴谷宰二郎かどちらかの変名なのかもしれない。

この号のグラビアには須磨利之の三色刷イラストが使われている。次第に須磨利之のカラーが奇譚クラブに現れてきている。

ちなみにこの第10号も、まだ『奇譚クラブ』の『譚』は誤字のままである。ここまで来ると、当時は本当にそういう漢字があったのかなと、心配になってくるのだが、調べた限りはそのような漢字は見つからなかった。

**別冊奇譚クラブ

変態路線に変更してからの『奇譚クラブ』はいくつかの増刊号を出すのだが、カストリ時代の『奇譚クラブ』も1949年(昭和24年)に別冊を出している。1月の『別冊奇譚クラブ 世界歡楽街めぐり』と4月の『別冊奇譚クラブ 第七天國探訪記』である。どちらも須磨利之が全面的に絵を描いてる。第9号では、編集後記に「姉妹雑誌『譚界』」の予告まで出しているが、この姉妹紙が発行されたことを示す証拠は今のところない。

1949年(昭和24年)10月10日にも、『別冊奇譚クラブ 歡楽街探訪』を発行しているのだが、こちらは内容を見てびっくり。表紙こそ違うものの、中身は4月の『別冊奇譚クラブ 第七天國探訪記』そのままである。謎である。

**喜多玲子の登場

1949年(昭和24年)2月25日発行の第11号では、辻村隆が信土寒郎『二十の扉異聞』として小説を書いている。この号にも相変わらずいろいろな名前の挿絵画家が登場してくるが、須磨利之の変名なのかどうか不明である。ただしその中で、その後も須磨利之が好んで使う変名の1つ「明石三平」はが登場するのが目をひく。ちなみに、この号からようやく『奇譚クラブ』の『譚』が正しい漢字となっている。

第11号に柴谷宰二郎が関わっていたのか不明だが、1949年(昭和24年)7月5日発行の第3巻第7号、9月15日に発行の第3巻第8号には柴谷宰二郎の名があるので、少なくとも1948年(昭和23年)10月から1949年(昭和24年)9月の1年間は須磨利之と柴谷宰二郎が『奇譚クラブ』の挿絵を担当していたことがわかる。

また、1949年(昭和24年)2月から1949年(昭和24年)7月の間のとこかで、「通巻」から「巻号」へと呼び方が変わっている。したがって、通巻第11号と第3巻第7号の間に、何冊発行されたかは、現時点では把握できていない。

須磨利之は生涯にわたって無数の変名を用いたが、その中でも有名なのが「喜多玲子」であろう。「喜多玲子」の名がいつ登場したのか、興味のある点であるが、上で紹介した雑誌の中で初めて登場するのが、1949年(昭和24年) 9月15日に発行の第3巻第8号である。この場合も未見の号が存在するので、「喜多玲子の登場は遅くとも1949年(昭和24年) 9月15日に発行の第3巻第8号である」という結論としておく。

さて、次回はいよいよ「須磨利之パワー大爆発」の1950年(昭和25年)からのB5版奇譚クラブを紹介したい。

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「トップ」と「ボトム」の起源

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SMpdeiaで新しく「英和SM辞典」のページを作り、英語圏のSMシーンの隠語を整理しています。といっても、わたしはそれほど英語が得意ではありませんので、FetLifeなどに集まっている外国人の緊縛愛好者にいろいろと教わりながら作業を進めています。

その過程で、「トップ」と「ボトム」の起源についておもしろい情報を教えていただきましたのでご紹介しましょう。

海外のSMシーンでは、縛られる側を「ボトム」と呼び、縛る側を「トップ」と呼びます。なので、緊縛師=トップなわけです。

どうして、縛る側がトップで、縛られ側がボトムなのかな、と前々から不思議に思っていました。「トップ」という言葉は、日本人にとって「トップに上り詰める」「トップを走る」といった「最高」の意味を思い浮かべますので、「外国では、縛り手が最高の人間で、縛られ手が最低な奴とでも思っているのかな」なんて想像もしていましたが、どうもそれも腑に落ちません。

ということで、さっそく質問してみたのですが、面白い答えが。

まず、「トップ」と「ボトム」というのは、ゲイ用語として有名らしく、「トップ」=「タチ役」、「ボトム」=「ネコ役」の意味を持つそうです。
確かに、ネットで「トップ、ゲイ,タチ」でサーチしてみると、いくつか上記の説明をしたものが出てきますので、ゲイの世界では、結構使われている言葉なのでしょう。

さらに、起源を辿ると、英国の公立学校で生まれた言葉という説があるそうです。
英国の公立学校というのは、お金持ちのエリートしかいけない中学・高校で(日本と違いますね)、全寮制です。オックスフォード大学とかほとんどこの公立学校から入学するのではないでしょうか。
この公立学校での同性愛の隠語として「トップ」と「ボトム」が生まれたという説があるようです。中学生で寮生活していると、当然同性愛愛好者が増えるでしょうが、その時、上に重なる方が「トップ」、下で受ける方が「ボトム」となったということで、これは、そのままゲイの隠語とつながります。

この英国公立学校で生まれた隠語が、米国のゲイシーンで定着し、さらに最近になって、Shibariの世界で、少し意味を拡張して広まった、というのがこの言葉の辿った歴史経路のようです。

米国には、「Shibaricon」と呼ばれる、2004年(平成16年)から続く大きなボンデージの集まりがあります(日本式緊縛というよりは、米国式ロープボンデージが中心だと思いますが)。この「Shibaricon」の起源を辿ると、2002年(平成14年)頃のシカゴでおこなわれた「International Mr Leather」というゲイの集まりに行き着きます。この「International Mr Leather」も1979年(昭和54年)から続く、ゲイを中心としたフェチ全般の大きな集まりのようです。ということで、米国ゲイの世界とボンデージは、かなり共有した世界を持っていたようなので、ここら辺から「トップ」と「ボトム」が米国SMシーンに広まったのかな、なんて思います。ただし、これはあくまで私の想像で、この時代になると、インターネットで情報はいくらでも広まることができるようになっていますので、特にこのルートでなければならないということもないでしょう。

「トップ」と「ボトム」は、今でもゲイシーンで使われている言葉の用ですので、相手が、どちらの文脈で使っているのかを的確に判断しないと、思わぬコミュニケーショントラブルに巻き込まれるかもしれませんね。

(写真は「International Mr Leather 2011」 の優勝者」

テーマ:昭和SMの歴史 - ジャンル:アダルト

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