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Ardent Obsession III

エロス、ロゴス、タナトスの臨界点

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『奇妙な果実』- 石垣章

若き頃の石垣章氏


おそらく1982年頃だと思われるが、土曜出版新社と呼ばれる出版社から『奇妙な果実』という緊縛写真集が出版されている。「土曜漫画創刊 25周年記念作品撮影」の写真集だ。

撮影担当は石垣章氏。緊縛は六本木薫氏。六本木氏は世田介一氏に近い、1970年代後半から80年代に活躍した緊縛師である。

この『奇妙な果実』の写真集、緊縛写真愛好者の間ではなかなかに評価の高い写真集である。発売当初も話題になったのであろうか、1983年(昭和58年)11月にはニューヨークのThe 4th Street Photo Galleryで石垣章氏は『奇妙な果実』の個展を開催している。東京三世社の『セクシーフォーカスScoop』1983年(昭和58年)11月増刊号には、「石垣章の奇妙な果実:アメリカに明日を見る超過激カメラマンの風景論」として意気込みが紹介されている。ただ、川本耕次氏のネットには、この展覧会が「女権保護団体に押し掛けられた」とあるので、大変な展覧会だったのかもしれない。

石垣章氏の緊縛写真集としては、他にも渡縛人氏が緊縛を担当したミリオン出版の『石原めぐみ写真集【夜叉姫】』(1987)が有名だ。その他にも、非緊縛系ヌード写真集、さらにはスターリンの遠藤ミチロウの写真集でも有名である。

1953年(昭和28年)頃生まれの石垣章氏、スタートはビニ本の写真家であった。アリス出版のビニ本撮影などで名が売れたらしく、『覗き撮り撮影現場』(アリス出版, 年代不記載)では、「自販機の雄、石垣章の撮影現場に乗り込んだ!!」と石垣章の撮影現場がドキュメント風に紹介されている。「先日『Oh! MANKO』と名打って自販機初の個展を企画したが、警察当局の力により公開されなかった。」とあるので、ニューヨークの展覧会といい、元気一杯の方だったのであろう。

1980年代前半はヌード写真家として多くの作品をいろいろな出版社から発表する。やがて1985年(昭和60年)に、にっかつ映画『緊縛花・美林の森』を監督し、動画分野にも進出する。この『緊縛花・美林の森』は石川均氏が脚本を担当し、初代葵マリーの赤坂ブルーシャトー出身の女王様、春川かおりが緊縛指導をおこなっている。

このにっかつ映画の監督のあとも、90年代中頃まで、V&R、KUKI、アリスジャパンなどの数多くのAV作品を監督している。興味深いことに、90年代の中頃には、ゲームソフトの開発にも着手しており、講談社から「B線上のアリス」というソフトを販売している。

昨年の6月、あるルートから石垣章氏へのインタビューを申し込んだ。仲介者からは「石垣さんは現在病気で入院していまして、自分も直接話しができない状態です。」 というお返事をいただいた。病気の回復を待って、改めてお話しを伺うのを楽しみにしていた矢先、石垣章氏の訃報を知る。58歳。まだまだ活躍していただきたかったお年である。素晴らしい緊縛写真を残していただいたことに感謝し、ご冥福をお祈りいたします。

テーマ:昭和SMの歴史 - ジャンル:アダルト

安全な緊縛プレイのための10箇条 ~縛られる側の心得~

2011年(平成23年)9月10日、イタリア・ローマの郊外ブファロッタで、女学生が緊縛プレイ中に、縄で首が絞まって窒息死するという、なんとも痛ましい事故が起こった(詳細はこちらに)。

現在は、詳しい情報が次第に明らかにされている状態なので事件の全貌は不明である。ただ、断片的な情報をつなぎあわせると、不正確かもしれないが、次のような状況が見えてくる。

おそらく事件を起こした男性は、緊縛術を学び始めてあまり時間がたっていないと思われる。お酒とハシシを摂取した状態で、女性を二人を連縛し、さらに窒息プレイに似た縛りを取り入れるといった、無謀な縛りを深夜の駐車場でおこなおうとした。結果、一人の女性は死亡、一人は重症である。

悲しい事件ではあるが、もう1つ極めて重大な問題がこの事件には含まれている。

すなわち、この事件が『日本式Shibariセックスゲームで学生が死亡』とイタリアから発信され、またたく間に世界中に広まったことである。

折しもヨーロッパでは、「Kinbaku」「Shibari」ブーム。ヨーロッパの緊縛は、特に緊縛美を強調したアートとしての側面を強調しているのが特徴とも言える。

「Kinbaku」を学び、ヨーロッパで新しい文化として広めようとしてきた愛好家にとってに、この事件は極めて厳しい事件である。初期対応を誤れば、あるいはこのまま「kinbaku」が欧米から危険な物として排除されてしまう可能性がある。今が、大切な時期といえよう。

欧米ののKinbaku愛好家の間では、これを機に、緊縛の危険性を再認識・周知させ、このような事故が二度とおこならにようにと、いろいろな活動が活発化している。

その中でもRida女史が9月14日にアップした『Rope Bottom Safety Decalogue -AKA Rope is more dangerous than it is given credit for-』が秀逸なので、Rida女史の許可を得て翻訳し、ここにアップする。

類似の事故の再発が起こらないことを願った彼女の言葉に耳を傾けたい。


安全な緊縛プレイのための10箇条 ~縛られる側の心得~

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一、 縛り手のことをよく知りましょう

縛り手が、誰もが知っている有名縛師というだけでは、貴方が縛り手のことを知っていることにはなりません。どんな場合でも、まず縛り手の方と十分なコミュニケーションをとりましょう。縛り手のことを知ることはともて重要なことなのです。いろいろ質問したりして、縛り手の方が緊縛に対してどのような考えを持ち、起こりうる危険性に対してどのような認識を持っているかを知りましょう。

二、 縛り手の方に貴方のことをよく知ってもらいましょう

たとえ貴方が初心者でも、それを縛り手の人に伝えるのを恥じてはいけません。正直に貴方の経験レベルを教えましょう。経験豊富なフリするのはよくありません。

三、 貴方のカラダのその日の状態を知りましょう

その日のカラダの状態が事故のリスクを大幅に上げることもあるのです。つまり、あの日にできたことが、今日もできるとは必ずしも限りません。同じ事をしても事故につながるかもしれません。その日のカラダの状態にあった、自分の限界点を知っておくべきです。

四、 貴方の体の不調を縛り手に知らせましょう

体調万全で縛られるにこしたことはありませんが、実際には、ちょっとお酒を飲んだ状態で縛られることになるかもしれません。頭がぼんやりする薬を飲んでいたり、寝不足や、時差ぼけの状態で縛られていることもあるかもしれません。そのような時、もし少しでも「いつもと違うな」と感じたなら、迷うことなくすぐに縛り手に知らせましょう。事故が起こる可能性がいつもより増していることを認識してもらうことが、まずは大切なことです。

五、 縛り手の不調を縛り手に知らせましょう

縛り手がお酒を飲んでいたり、薬を飲んでいたり、あるいは寝不足であることが分かったなら、縛り手に「極めて」事故が起こる可能性が高い状態であることを知らせましょう(中止するにこしたことはありません)。そこまででなくても、縛り手の方に対して「どうもいつもより反応が鈍い」とか、「なんだか今日は注意散漫だ」と感じたら、そのことを素直に縛り手に知らせて、注意を喚起しましょう。


六、 状態の悪化をすぐに縛り手に知らせましょう

縄は気持ち良いものです。受け手を恍惚状態にして忘我の状態に導きます。でも、事故の危険を下げるためには、頑張って、あなたが今、どのように縛られて、体にどのようなことが起こっているのかを冷静に知っていなければなりません。手の指先や足指を時々動かす、あるいは体をくねくねと折り曲げて、関節に無理がかかっていないかをチェックするのがよいでしょう。異常を感じたら、すぐに縛り手に知らせましょう。

七、 急ぐ必要はありません

あれもしたい、これもしたい。あんな風にも縛って欲しい・・・我慢しましょう。時間はたくさんあります。欲張っては事故を招いてしまいます。

八、 緊縛は競技ではありません

だれそれさんが、あんなこともしている、こんな難しいこともなし遂げたみたい・・・他人が気になりますね。でも、難しい縛りをこなしたからといって、その人がよりよい受け手になったという訳ではありません。貴方は貴方。緊縛は競技ではありません。初歩的な縛りのレベルだけで、ずっと楽しんでいてもいっこうに構わないのです。

九、 経験を積んでも危険の回避には常に謙虚に

貴方がいろいろな縛り手の方に、何百回と縛られたとします。でも、その華々しい経歴も、たった一回の事故で全ては消え去ります。経験をつんでも油断は禁物です。「事故のリスク」は、初心者でも経験者でも同じと考えましょう。ただ、経験者は「事故を避ける方法を」初心者よりもよく知っていることが多く、そのことで実際に事故の起こる可能性を下げることができるのです。

十、 縛り手にずけずけ言うのをためらってはいけません

どんなことでもいいので、おかしいなと思うことは遠慮なく縛り手に伝えなければなりません。縛り手は絶対主ではないのです。貴方の心を読むこともできません。貴方の身の安全は貴方自身が責任をもって守らなければならないのです。貴方が言いたいことを言わないとしたら、それは返って縛り手の負担にもなります。貴方がずけずけと言ってしまうと、あるいは一時的に縛り手のプライドを傷つけることになるかもしれません。でも、最終的には、縛り手は、貴方がそうしたことに感謝するはずです。人間の体は全ての人でそれぞれ異なるのです。縛り手の方が何百人を縛ってきたといっても、貴方の体は「何百人+1」番目の新しい体なのです。

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映画における緊縛指導(1):名和弓雄-最初の緊縛指導者?

(この記事は2009-09-20にアメーバに投稿した記事を加筆訂正したものです)


2004年に公開された石井隆 監督、杉本彩 主演の「花と蛇」(東映ビデオ配給)では、「緊縛指導」として有末剛 氏が参加している。この種のSM映画の成否が映画中での緊縛のQualityに左右されることは言うまでもなく、特に一般人のみならずマニアをも満足させるSM映画と作るためには、有末氏のような第一級の緊縛師の参加は不可避であろう。

「緊縛指導」を中心にキーワードとして、年代を遡りながら最近の映画をサーチしてみると、多数の緊縛師が緊縛指導として関わった映画が見つかってくる。

SM映画が最もその隆盛を極めた1970年代、1980年代には、どのような人達が緊縛指導をしていたのであろうか? 映画スタッフの記録があまり詳細でない時代(特にピンク映画は)ではるが、奇譚クラブ裏窓といったマニア雑誌の記事を頼りにすることで、その様子を、不完全ではあるがうかがい知ることができる。

以下、複数回に分けて、歴史の古い順にSM映画の緊縛指導に関わったと思われる人達を紹介していきたい。


第1回目は 名和弓雄 氏 に登場していただく。

「日本拷問刑罰史」の森美沙



国内最初のSM映画がどの作品にあたるのか? はっきりとしたコンセンサスはないが、複数のマニアの方が1964年の小森白監督『日本拷問刑罰史』(新東宝)がそれに相応しいものではないかと指摘している。

64年がどのような時代かをざっと記してみよう、1960年に「風俗奇譚」が創刊。62年には濡木痴夢男氏が裏窓の二代目編集長。同時期に「悪書追放運動」が始まる。同じく62年に、日本最初のピンク映画とされる小林悟監督の『肉体の市場』が発表。63年に連載3回でストップしていた「花と蛇」が奇譚クラブで再開(花巻京太郎から団鬼六に作者名変更)。65年に「サスペンスマガジン」創刊。同年、11PMが放送開始。また、オサダ・ゼミナールが発足、といった感じである。もちろんSMという言葉はまだ一般社会の人々には知られていない時代である。

さて、「新東宝」といえば、昭和生まれの世代はピンク映画を連想する。しかし日本映画の歴史を辿ると、「新東宝」は、まず東宝株式会社の組合を脱退した俳優、監督が中心に1947年に設立した「新東宝映画製作所」として誕生している(後に新東宝株式会社)。嵐寛寿郎、丹波哲郎などを抱える、お堅い映画会社として生まれている。後に話の出てくる石井輝男監督も新東宝出身であることに注目したい。
 経営は順調とはいかなかったらしく、1955年に後の大蔵映画(上記のわが国最初のピンク映画『肉体の市場』に深く関連)の創立者である大蔵貢が事実上の買収で社長となる。大蔵は「安く、早く、面白く」で改革を試み、多くの新人を生み出したが、やがてそのワンマン体制から離脱者を生み出し、とうとう60年に大蔵は新東宝から追放され、その後、61年に新東宝株式会社は倒産してしまっている。

昭和後半生まれが「ピンク映画の新東宝」として認識している「新東宝」は、正確にはこの「新東宝株式会社」ではない。61年に倒産したあと、旧会社の有志が作った「新東宝興行株式会社」(後に、「新東宝映画株式会社」)がそれである。似たような名前が続々と出てくるので、便宜上61年までの新東宝を「旧『新東宝』」、61年以降を「新『新東宝』」としておく。

小森白(きよし)監督(1920-)は、旧「新東宝」の設立当時から活躍し、倒産後も新「新東宝」へと制作の場を移して活躍した名監督である。そしてこの『日本拷問刑罰史』は新「新東宝」からの配給映画となる。余談になるが、大蔵貢が新東宝を追い出されから設立した「大蔵映画株式会社」の第1作が小森白監督の「太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962)」である。小森白監督と石井輝男監督は大蔵貢が育てたとされるので、ある意味大蔵は日本SM映画の父とも言える。

話が少し小森白監督にずれてしまったので、本題の名和弓雄氏に戻ろう。『日本拷問刑罰史』は原作が名和弓雄となっている。名和弓雄は1912年(明治45年)生まれ、2008年(平成18年)永眠。時代考証家、武道家。「正木流万力鎖術第10代宗家。拷問具のコレクションは現在明治大学刑事博物館に収蔵。」などとの記述ある。これを読むと、名和は学者肌の歴史研究家で、小森白監督に乞われて、拷問の時代考証をしたのだな、と思ってしまう。実は、それがそうでもないのである。

「裏窓」1965年(昭和40年)1月号に「『日本拷問刑罰史』撮影裏話」と題した名和弓雄氏の寄稿が載っている。それを読むと、「裏窓に連載(1962年2月号から4月号まで『日本拷問史』を連載。5月号には『西洋拷問史』。6月号からは『日本刑罰史』を12月まで連載。)していたものを『日本刑罰史』をまとめて出版(1962年の雄山閣『拷問刑罰史』か?)したところ、新東宝の並木社長が「これはいける」、と飛びついてきた。私も、それまでの時代物映画のいいかげんな考証をなんとかしなければと思っていたところであるし、しかも監督の小森白は時代物映画を撮るのが初めてらしいので、きちんとした考証の映画を撮ってくれるかもしれない」という内容のいきさつから始まり、映画撮影の様子が詳しく書かれている。

制作への関わりは、想像していたような「時代考証に関して専門的なコメントを出す」といった消極的なものではない。名和にとっては、自分が作りたかった「拷問シーンだけで構成された映画」が夢かなって作れる、ということで、かなりの気の入れようである。ノリノリなのである。ロケ地の選択だけで、監督と1週間あちこちを見回ったとある。女優達の緊縛や拷問に対する困惑ぶりも面白くおかしく書いている。某女優は「お乳が映るのは困ります」と、磔シーンで足を折り曲げ必死に乳首を隠そうとしてなかなか撮影が進まなかった、と回想している。全裸で撮影するシーンは、映画女優は使えないので、ストリッパーを調達してきたと書いてある。その他にも、縄がいたくないように、巧みにカバーをしたことや、命がけの海中での逆さ磔の撮影シーンなど、苦労話がたくさん披露されている。

名和弓雄』は、いわゆる伊藤晴雨須磨利之といった初期の緊縛師として知られているわけではないが、上記の『日本拷問刑罰史』の制作過程を見る限り、日本最初のSM映画において『日本最初の緊縛指導』者と結論してもよいのではなかろうか。

残念ながら私はこの『日本拷問刑罰史』を見たことはない。ただ、後にも出てくる石井輝男監督の『徳川女刑罰史(1968)』『徳川いれずみ師 責め地獄(1969)』の冒頭には、数々の江戸拷問刑のシーンが使われている。小森作品のスチール写真と非常に似た印象をもつ映像なので、『日本拷問刑罰史』をかなり意識しながらこの冒頭シーンを撮影したのではないかと想像している。

(画像は『日本拷問刑罰史』より森美沙の磔シーン)

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