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Ardent Obsession III

エロス、ロゴス、タナトスの臨界点

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カストリ誌時代の『奇譚クラブ』 ~その1~

(各項目にリンクがはってあるヴァージョンは『SMペディア』の「カストリ誌時代の『奇譚クラブ』 ~その1~」にもありますので、そちらもご覧下さい。図へのリンクへもそちらの方が多いです)。

奇譚クラブ』は1947年(昭和22年)10月25日に創刊号が発行され、1975年(昭和50年)3月1日発行の3月号で休刊するまで、実に29年の長きにわたって発行されたアブノーマル雑誌である。

『奇譚クラブ』が発行されていた1947年(昭和22年)から1975年(昭和50年)の間に創刊された、主なSM関連雑誌の発行期間を見てみよう(図1)。『奇譚クラブ』と共によく名前の出てくる『裏窓』や『風俗奇譚』は、確かに発刊期間も長いものの、『奇譚クラブ』には及ばない。もちろん、発行期間が長ければよいというものでもないが、『奇譚クラブ』が内容的にも高いレベルを維持しながら長期にわたり発行を続けていた。

この図を見ると、70年以降に、どっとSM関連雑誌の創刊が続いているのが分かる。雑誌名として「SM」の略号が使われるのが、1970年(昭和45年)の『問題SM小説』(コバルト社)、『Pocket SM』(コバルト社)、『SMセレクト』(東京三世社)からであるが、この頃からいわゆる「SM雑誌ブーム」が始まり、80年代にかけて何十種類というSM雑誌が生まれることになる。『奇譚クラブ』はこの「SM雑誌ブーム」の到来を見届けた後に、その長い歴史を閉じるわけである。

70年代の「SM雑誌ブーム」と共に、50年代前半にもちょっとしたSM雑誌(といっても、当時はSMという言葉はまだなかったが)創刊ブームがあったのが分かる。『風俗草紙』『風俗科斈』『風俗クラブ』などがそれにあたり、図には載せていないが、他にも『風俗双紙』などの雑誌もこの頃に出ていた。ただ、これら50年代前半の「風俗」雑誌は全て短命に終わっている。1950年代に入ると、1950年(昭和25年)の『チャタレー事件』、1951年(昭和26年)の『あまとりあ』摘発、1954年(昭和29年)の『風俗草紙』摘発と性を取り扱った雑誌・書籍への取り締まりが厳しくなる。その最たるものが、1955年(昭和30年)の『四・二八いっせいとり締まり』で、全国で39人の出版関係者らが検挙されている。これら性風俗雑誌に対する逆風が、50年代前半の「風俗雑誌ブーム」を短命に終わらせたのだろう。ともかく、『奇譚クラブ』はこの性風俗雑誌の取り締まりを免れ、その後も何度か来る取り締まりを耐えながら30年近くも発行を続けたことになる。創刊者で発行者の吉田稔氏の手腕は並大抵のものではなかったのが分かる。

ところで、一般的にSM雑誌としての『奇譚クラブ』は、その始まりが、1947年(昭和22年)ではなく、5年後の1952年(昭和27年)6月号(5月・6月合併号)からとされている。この1952年(昭和27年)6月号から、それまでのB5版サイズから、少し小さめのA5版サイズに変更し、内容的にも大きく変態路線に舵を切っている。

『奇譚クラブ』が創刊された1940年代後半のいくつかの「カストリ雑誌」の発刊時期を見てみよう(図2)。最も初期のカストリ雑誌としてよく名前が出てくるのが、1946年(昭和21年)10月頃に創刊された『猟奇』である。『猟奇』と共にカストリ雑誌として有名な雑誌の1つに『デカメロン』があるが、これが同年1月の創刊である。「カストリ雑誌ブームは」1949年(昭和24年)には終わるとされるのが、その中でも、1947年(昭和22年)11月創刊の『奇譚クラブ』は、カストリ雑誌としても、まあまあ古い部類に属するといってよい。

そもそも「3合飲めば目が潰れる」という非合法の「カストリ焼酎」にその名前が由来していると言われる「カストリ雑誌」であるので、「短命」は「カストリ雑誌」の特徴でもある。この「カストリ雑誌」の宿命から脱皮して、30年近く続いた『奇譚クラブ』は、「カストリ雑誌」の中でも異色の存在といえる。

1952年(昭和27年)以降の『奇譚クラブ』の情報は比較的多いものの、それ以前の「カストリ雑誌時代の奇譚クラブ」の情報は限られている。須磨利之が「カストリ雑誌時代の奇譚クラブ」に参加したのはいつなのか?辻村隆はいつからいたのか?喜多玲子の登場はいつなのか?・・・『奇譚クラブ』のファンにとっては興味のあるところである。「カストリ雑誌時代の奇譚クラブ」に関しては、風俗資料館に何冊かの現物があり、また、ネット上の「懐かしき奇譚クラブ」にも何冊かのデータが存在するので、それらのデータをベースに、分かる範囲での「カストリ雑誌時代の奇譚クラブ」の歩みを追ってみた(図3)。

**奇譚クラブ創刊号

残念ながら私自身は、奇譚クラブの創刊号の現物を目にしたことはない。いくつかの書籍での解説や、ネットの情報は、1947年(昭和22年)10月25日に曙書房から創刊されたということでほぼ一致している。おそらく発行人は吉田稔であろう。ネット上を丁寧に探してみると、創刊号の表紙と称するものを拾うことができる。「怪奇妖気 探奇特集号」と題し、表紙には地味な「龍」のイラストが描かれている。

この画像を見つけた際、「懐かしき奇譚クラブ」のブログに報告したのだが、その時、常連投稿者の一人の方から、この表紙のデザインは、戦前の『グロテスク』のデザインを盗用しているのだろうとの指摘をいただいた。『グロテスク』は梅原北明によって発行された戦前のエログロ文化を代表する雑誌で、1928年(昭和3年)から1930年(昭和5年)まで発行されている。確かに、1929年(昭和4年) 1月号の『グロテスク』の表紙を見ると、『奇譚クラブ』の創刊号とそっくりである。『グロテスク』の発行時期から考えて、吉田稔が若い頃に『グロテスク』に影響を受けていたと考えてもおかしくはない。

この『奇譚クラブ』の創刊号の表紙で面白いのが、誤字である。『奇譚クラブ』の『譚』の「早」の部分が、よく見ると間違っている。横の棒が一本多い。さらに面白いのが、英語表記が「Kitan Clab」と「Club」をミススペルしている。

創刊号は表紙に「11」と数字があるので、11月号として出されたのであろう。通巻2号が同じく1947年(昭和22年)に出ているようなので、こちらは12月号として出たものと思われる。

3号、4号に関しては情報がないので、いつ出版されたのか不明である。通巻5号は風俗資料館にあり、1948年(昭和23年)3月20日に出ている。中綴じ35ページで22円。杉山清詩の『パンパンガール殺人事件』などが掲載されている。杉山清詩は、カストリ誌等に小説を書いていた小説家だ。本業は「京都中央新聞社」の社員で、この「京都中央新聞社」には、須磨利之がつとめていた。事実、須磨利之が『奇譚クラブ』に関わり合いをもつきっかけとして、「1940年代後半、同じく京都中央新聞社に勤めていた須磨利之を曙書房に連れて行き、奇譚クラブとの縁を作る」という表記が見受けられる(他にも、「たまたま梅田駅で昔の(吉田の)戦友須磨利之と出会い、それがきっかかけで須磨氏が奇譚クラブに参画」というのもあるので、どれが真実かはわからないが)。

この杉山清詩の『パンパンガール殺人事件』の挿絵が気になるところだが、挿絵は「紫荘児」の手になるものと記されており、須磨利之の絵を思わせる痕跡は見当たらない。他にも「南陽二」などの挿絵家の名前が出てくるが、全体を通して、須磨利之の関わった気配を感じることはできない。

この通巻5号が3月発売なので、前の年の10月に創刊し、1月分抜けているものの、ほぼ毎月のペースで5号まで発行されていたことになる。ちなみに、この段階でもまだ、『奇譚クラブ』の『譚』は誤字のままで、やはり「Kitan Clab」となっている。

通巻6号の情報はなく、通巻7号が1948年(昭和23年)5月20日に発売されている。中綴じ35ページで25円。少し値上がりしている。やはり杉山清詩の小説が掲載されているものの、全体を通して、須磨利之の関わった気配を感じることはできない。

**須磨利之と柴谷宰二郎

通巻8号の情報はなく、続いて通巻9号となる。この9号で、いよいよ須磨利之の登場となる。

通巻9号が発行されたのが、1948年(昭和23年)10月15日。7号が5月20日なので、少なくとも3ヶ月分抜けていることになる。51ページで40円と値段も大幅にアップしている。

カストリ雑誌ブームは1949年(昭和24年)頃に急速に萎むのだが、その理由の1つに激しい当時のインフレがある。ページ数が増えているとはいえ、半年ばかりで25円から40円に値上げしているわけだから、やはり当時は雑誌発行が大変な時期だったのであろう。

この9号、副題に『爽秋讀切傑作號』とつけられており、執筆陣に邦枝完二や長谷川伸といった名の知れた文筆家の名もある。引き続き杉山清詩が寄稿しており、その後奇譚クラブの常連となる高村暢児の名も見ることができる。注目すべきは、大谷冽『平和荘綺譚第一話 彼女は驚きぬ』、杉山清詩『青空晴子探偵シリーズ 鯰に魅入られた男』、住田恭平『嘆きのイヴ』の挿絵が須磨利之なのである。遂に須磨利之が登場したわけだ。

この号には挿絵画家として、上原正夫、清原康、黒石光、笹岡一夫、岡田利久の名が出てくる。そして驚くことに、「柴谷宰二郎」の名も出ているのだ。邦枝完二『圍い者』の挿絵が「柴谷宰二郎」となっている。

「柴谷宰二郎」はすなわち「滝麗子」である。1953年(昭和28年)に須磨利之が奇譚クラブを抜けた後、しばらくの間、奇譚クラブの中心絵師として活躍した。「三条春彦」「栗原伸」「方金三」の変名でも有名である。

濡木氏の著作では、柴谷宰二郎は「須磨利之の先輩にあたる日本画家」とある。これを裏付けるように、兵庫県芦屋市の広報誌「あしや」の表紙や挿絵を、柴谷宰二郎は1949年(昭和24年)から1950年(昭和25年)末まで担当しており、広報の中でも「柴谷画伯」として紹介されている。芦屋に在住していた日本画家だったのかもしれない。

1953年(昭和28年)以降の奇譚クラブで大活躍する滝麗子が、カストリ誌時代の奇譚クラブに既に絵を描いていたのは、驚きの発見であった。

表紙は恐らく須磨利之の手になるもだと思われる。「クラブ」の「ブ」の濁点が7月号では「フ」の上部に位置しているが、この9月号以降、「フ」の下部に移動している。須磨利之の好むスタイルと想像される。

**辻村隆の登場

もう1つこの9 号で驚きなのが、「信土寒郎」の名が既に出ていることだ。「信土寒郎」は辻村隆の初期の変名。1948年(昭和23年)10月の時点で、辻村隆が既に関わっていたことがわかる。特に何かの小説を書いているわけでは無く、他の人の小説の末尾に、埋め草のように短い文書いていることから、編集スタッフとしての参加だったのかもしれない。

8月号が未見のために、結論として「須磨利之・辻村隆はほぼ同時に、遅くとも奇譚クラブ1948年(昭和23年)の10月号(通巻9号)から参加していた」を導き出すことができる。

9号の出た3ヶ月後の1949年(昭和24年)1月5日に第10号が出版されている。間が空いているのは、やはり経営が難しい状況だったのかもしれない。この号にも須磨利之と柴谷宰二郎が挿絵を描いている。「司馬湲」の名前での挿絵のサインが「SHIBATANI」のままなので、この「司馬湲」は柴谷宰二郎の変名で間違いないであろう。他の笹岡三千雄、笹岡武二、清原康、左脇不二夫、田中比呂志という挿絵画家も、あるいは須磨利之か柴谷宰二郎かどちらかの変名なのかもしれない。

この号のグラビアには須磨利之の三色刷イラストが使われている。次第に須磨利之のカラーが奇譚クラブに現れてきている。

ちなみにこの第10号も、まだ『奇譚クラブ』の『譚』は誤字のままである。ここまで来ると、当時は本当にそういう漢字があったのかなと、心配になってくるのだが、調べた限りはそのような漢字は見つからなかった。

**別冊奇譚クラブ

変態路線に変更してからの『奇譚クラブ』はいくつかの増刊号を出すのだが、カストリ時代の『奇譚クラブ』も1949年(昭和24年)に別冊を出している。1月の『別冊奇譚クラブ 世界歡楽街めぐり』と4月の『別冊奇譚クラブ 第七天國探訪記』である。どちらも須磨利之が全面的に絵を描いてる。第9号では、編集後記に「姉妹雑誌『譚界』」の予告まで出しているが、この姉妹紙が発行されたことを示す証拠は今のところない。

1949年(昭和24年)10月10日にも、『別冊奇譚クラブ 歡楽街探訪』を発行しているのだが、こちらは内容を見てびっくり。表紙こそ違うものの、中身は4月の『別冊奇譚クラブ 第七天國探訪記』そのままである。謎である。

**喜多玲子の登場

1949年(昭和24年)2月25日発行の第11号では、辻村隆が信土寒郎『二十の扉異聞』として小説を書いている。この号にも相変わらずいろいろな名前の挿絵画家が登場してくるが、須磨利之の変名なのかどうか不明である。ただしその中で、その後も須磨利之が好んで使う変名の1つ「明石三平」はが登場するのが目をひく。ちなみに、この号からようやく『奇譚クラブ』の『譚』が正しい漢字となっている。

第11号に柴谷宰二郎が関わっていたのか不明だが、1949年(昭和24年)7月5日発行の第3巻第7号、9月15日に発行の第3巻第8号には柴谷宰二郎の名があるので、少なくとも1948年(昭和23年)10月から1949年(昭和24年)9月の1年間は須磨利之と柴谷宰二郎が『奇譚クラブ』の挿絵を担当していたことがわかる。

また、1949年(昭和24年)2月から1949年(昭和24年)7月の間のとこかで、「通巻」から「巻号」へと呼び方が変わっている。したがって、通巻第11号と第3巻第7号の間に、何冊発行されたかは、現時点では把握できていない。

須磨利之は生涯にわたって無数の変名を用いたが、その中でも有名なのが「喜多玲子」であろう。「喜多玲子」の名がいつ登場したのか、興味のある点であるが、上で紹介した雑誌の中で初めて登場するのが、1949年(昭和24年) 9月15日に発行の第3巻第8号である。この場合も未見の号が存在するので、「喜多玲子の登場は遅くとも1949年(昭和24年) 9月15日に発行の第3巻第8号である」という結論としておく。

さて、次回はいよいよ「須磨利之パワー大爆発」の1950年(昭和25年)からのB5版奇譚クラブを紹介したい。

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「トップ」と「ボトム」の起源

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SMpdeiaで新しく「英和SM辞典」のページを作り、英語圏のSMシーンの隠語を整理しています。といっても、わたしはそれほど英語が得意ではありませんので、FetLifeなどに集まっている外国人の緊縛愛好者にいろいろと教わりながら作業を進めています。

その過程で、「トップ」と「ボトム」の起源についておもしろい情報を教えていただきましたのでご紹介しましょう。

海外のSMシーンでは、縛られる側を「ボトム」と呼び、縛る側を「トップ」と呼びます。なので、緊縛師=トップなわけです。

どうして、縛る側がトップで、縛られ側がボトムなのかな、と前々から不思議に思っていました。「トップ」という言葉は、日本人にとって「トップに上り詰める」「トップを走る」といった「最高」の意味を思い浮かべますので、「外国では、縛り手が最高の人間で、縛られ手が最低な奴とでも思っているのかな」なんて想像もしていましたが、どうもそれも腑に落ちません。

ということで、さっそく質問してみたのですが、面白い答えが。

まず、「トップ」と「ボトム」というのは、ゲイ用語として有名らしく、「トップ」=「タチ役」、「ボトム」=「ネコ役」の意味を持つそうです。
確かに、ネットで「トップ、ゲイ,タチ」でサーチしてみると、いくつか上記の説明をしたものが出てきますので、ゲイの世界では、結構使われている言葉なのでしょう。

さらに、起源を辿ると、英国の公立学校で生まれた言葉という説があるそうです。
英国の公立学校というのは、お金持ちのエリートしかいけない中学・高校で(日本と違いますね)、全寮制です。オックスフォード大学とかほとんどこの公立学校から入学するのではないでしょうか。
この公立学校での同性愛の隠語として「トップ」と「ボトム」が生まれたという説があるようです。中学生で寮生活していると、当然同性愛愛好者が増えるでしょうが、その時、上に重なる方が「トップ」、下で受ける方が「ボトム」となったということで、これは、そのままゲイの隠語とつながります。

この英国公立学校で生まれた隠語が、米国のゲイシーンで定着し、さらに最近になって、Shibariの世界で、少し意味を拡張して広まった、というのがこの言葉の辿った歴史経路のようです。

米国には、「Shibaricon」と呼ばれる、2004年(平成16年)から続く大きなボンデージの集まりがあります(日本式緊縛というよりは、米国式ロープボンデージが中心だと思いますが)。この「Shibaricon」の起源を辿ると、2002年(平成14年)頃のシカゴでおこなわれた「International Mr Leather」というゲイの集まりに行き着きます。この「International Mr Leather」も1979年(昭和54年)から続く、ゲイを中心としたフェチ全般の大きな集まりのようです。ということで、米国ゲイの世界とボンデージは、かなり共有した世界を持っていたようなので、ここら辺から「トップ」と「ボトム」が米国SMシーンに広まったのかな、なんて思います。ただし、これはあくまで私の想像で、この時代になると、インターネットで情報はいくらでも広まることができるようになっていますので、特にこのルートでなければならないということもないでしょう。

「トップ」と「ボトム」は、今でもゲイシーンで使われている言葉の用ですので、相手が、どちらの文脈で使っているのかを的確に判断しないと、思わぬコミュニケーショントラブルに巻き込まれるかもしれませんね。

(写真は「International Mr Leather 2011」 の優勝者」

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